何を探し求めてきたのでしょうか?
生きるってどういうこと?
人はどこから来たのだろう?
何処に帰るのだろう?
宇宙ってなんだろう?
なぜ親子なの?
愛って何?
なぜ争わなくてはいけないの?
命って何?何処に在るの?
死んだらどうなるの?なぜ死ぬの?
神って何?
絶対って何?
自由って何?
夢って何?何故見るの
体ってどうなっているの?
自然って何?
本当のことって何?
…………………………………..?
今まで私達人類は膨大な量の情報を蓄積してきました。他の生物が全く持つこともなく生きている疑問というものを追求してきた結果とも言えましょう。たとえば前述したような疑問です。多くの人がこのような疑問を解明するために様々な角度から、多様な手法によって研究を重ねてきました。
しかしここで少し考えてみて欲しいことがあります。
いかなる疑問も、今までに著された膨大な書物も全てコトバ を使うことで為されているのです。
コトバで思い
コトバで考え
コトバで悩み
コトバで喜び
コトバで苦しみ
コトバで悲しみ
コトバで思想を作り出し
コトバで争い
コトバで価値基準を作り、生きているのです。
ではもしコトバがなかったらどうなるでしょうか?
思考という行為はコトバなくしては成立しません。さらに先に考えるきっかけあるいは原因になる思いというものがないので考えることができません。思考という熟語の順序に着目してください。思い、そして考えることが出来なければ他の生物のように本能だけで生きることになります。人類は他生物とは異なり文明というものを持っているユニークな生物です。その類のない唯一性の基盤には、コトバを使う、つまりそれにより思考できるという性能があります。
思いかつ考えることができるからいろいろな工夫をし、生活をより便利にかつまた快適に過ごすにはどうしたら良いのかなどの創意工夫をしてきたのです。
それでは『コトバ』とはどういう存在なのでしょうか?『コトバ』とはどういうエネルギーなのでしょうか?これからそのことについて考えてみましょう。
1984年5月3日友人と共に小田野早秧先生という方をお訪ねしお話をお伺いしました。個人的な面白いエピソ–ドなのですが。先生の自宅は田園調布に在り、田園調布といえば超高級住宅地なのでどのようなお宅かなと思っておりましたが、周りはすばらしい家ばかりでしたが、先生のお宅はまるでタイムスリップしたのではないかと思われるような、木造で今にも壊れそうな、ビルの谷間の小さな小屋のようなお宅でした。玄関は小さな木づくりでスリガラスが入っており、昔のガラガラと力を入れてあけるようなドアでした。挨拶をしながら入っていくと四畳半程の小さな部屋に小さな白髪まじりのおばあさんがちょこんと座っておられました。座ろうとすると「ちょっとあなたねちゃんとドアを閉めないとダメじゃない。」といきなり注意されました。玄関とお部屋の間にもう一つドアがあり入ってくる時に少し1Cm程隙間があいていました。きちんと閉めていなかったのです。始めて会ったその日にこのように注意されるなんて、この方の注意の仕方は、まるで家族の一員にでも注意するようにおっしゃられました。凄い方だなと思いました。ふつうは見て見ぬふりをし、もっと近しい間柄になって注意するならするのですが、なんと深い愛を持っておられる方なのだろうと感心しながらドアを閉めに戻りました。
お話が始まるとまるでその年令とは懸け離れた「詞」がポンポン口から飛び出してくるではありませんか、きょとんとして聞いていると次から次に今まで聞いたこともないような考えがどんどん展開してきました。
間無しに詞が尽きることのない泉のように沸き出し、流れ出てくるという感じでした。今思うとその時のお話の内容はよく記憶していませんが、とにかく次から次にお話されていたことの方が強烈に残っております。
長く座ってお話しをお聞きしておりましたので、暫くして用を足したくなりトイレにいきました。トイレから帰ってくると先生もトイレにいかれたので、やはりあのように矢継ぎ早にお話されると、用を足さないと大変だよなと思っておりましたら、戻って座られるや否や、『あなたねトイレを使った後は次の方がさっと入れるようにスリッパをきちんとそろえておかないと困られるでしょ。』と第二段のストレ–トパンチを頂きました。いやはや間抜けな自分に呆れると同時に、このかたの生活に対するきちんとした生き方を考えさせられました。いろんなお話をお聞きしたとは思いますが、先生のパワ–に圧倒され、話の内容を考える余裕もなく、ただぽかんと聞いていたというのが正直なところです。しかし次のようにお話して頂いたことがしっかり残っておりました。
先生はこのようにおっしゃいました。
『コトバ(詞)で思い、コトバ(詞)で考え、コトバ(詞)で話しているのよね、全てコトバ(詞)なのよね』と。
コトバか!今までコトバがなにかなんて考えもしませんでした。このように1984年5月3日が終わりました。
この時以来、心の中に新たな疑問が刻み込まれました。
『コトバって何だろう?』
本当のことを知りたくて多くの本を讀み、多くの方のお話をお聞きしてきましたが、本に書かれているのは書かれた方の考えですが、確かにそれは「文字」を連ねることによって「文」となり「文」が連なることによって考えを表すことができます。又多くの方のお話をお聞きしましたが「話」も一音一音「コトバ」という音を連ねることによって「話」となり相手に伝わっていきます。本を讀みお話を伺って参りましたが「コトバ」、「文字」について考えたことはありませんでした。小田野先生は従来の言語学的見地からではなく、「コトバ」をエネルギ–的見地から考察されたのです。
朝起きて「トイレに行こう」と思うからトイレに行くのです。「歯を磨かなくちゃ」と思うから歯を磨き、「朝食を食べよう」と思うから食事をし、「何時何分までに学校へ(会社へ)行かなくちゃ」と思うから遅れないように準備して出かけ、このように「何処何処へ行かなくちゃ、何々をしなくちゃ」と思うから行動を起こすのだと思います。全て「コトバで思うから」生活が営み行われているのではないでしょうか?日常生活の何でもなく行なっていることは、小さい時から何度も繰り返し「思い、行ってきたので」習慣づいてしまっているのでいちいち、このように思ったから行っているという認識は持っていませんが、コトバがあるから考えることができ、コトバがあるから喜び、コトバがあるから悲しみ、苦しみ、何もかも生活のすべては「自分の思い=コトバ」によって行っているのではないでしょうか?もし私達人類に「コトバ」がなかったらどうでしょうか?思い考えることができないので人としての生活ができません。私達人類と他生物との大きな違いは、考えることができる「コトバ」を持っているかどうかということなのではないでしょうか?